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2006.10.3120:55

阪神大震災の記録 Aじい大活躍。Aばあはこのように守られた。はず。

Aじいは、ついこの間のボンクラ会(高校の同窓会)の記念文集用に、阪神大震災の原稿を出しました。関係者だけで読むのはもったいない記録なのでブログにアップすることにしました。


阪神大震災

 平成七年一月十七日未明、何故か今日午前中の母子揃っての心臓検査予約日のことが気にかかり、寝惚け眼をこすった瞬間にガタガタと言う音で地震が来たなと思った瞬間に、グワンともっと大きな音が聞こえてきたのです。これは一寸違う。危ないのではないかと反射的に隣に伏していた妻を抱きかかえ、布団もろとも下にもぐり込めと、声を上げたが、声にならず。そのときです。これが地震というものかと思うほど、地底より異様な轟音とともに、螺旋状に突き上げてきたのには驚く暇もなし。押し上げられたり、揺さぶられたりが一瞬の間に起きたのです。

 何が起きたのか、何が何だか分かりません。やっと収まったかなと思って辺りを見回しましたが、まだ暗くてよく見えません。

 体が動かず。でも手だけは動いたので、手探ってみたら、横にあった紫檀の茶箪笥が倒れてお腹の上に乗っています。重かったわけです。頭の上でなくて助かりました。

 だんだん様子が分かってみると、寝室にあったあらゆるものが落ちている。洋服ダンス、人形ケース、和洋額縁や卓上ミシンまでが落ちていたのです。布団の上はガラスの破片だらけだと分かったので、うかつに起き上がると怪我をするからと、私がゴソゴソとやっと這い出して、倒れた茶箪笥を少しずつゆすって動かし隙間を空け、その間に妻も這い出ることができました。

 母はベッドの光背が支えになり、たんすの上に乗せてあった若干の箱が掛け布団の上に落ちただけで、怪我をせずに済みました。

 そうこうしているうちに白々と明るくなって来て、応接室の様子がもっとよく分かってきました。大きくて重い本棚二本は倒れ、ガラスの戸が割れ、本が飛び出して散乱。ピアノまでが一メートルほど動いて仰向けになているのには一驚。テレビは運よく台車付きのため、部屋の端から橋まで動いていたが倒れなくて助かりました。しかしその他の棚にあったすべての陶器類、置物等が落ちて割れてしまいました。

 台所も棚は全部倒れ、瀬戸物やコップ類のすべてがきれいに割れて山積み状態。呆れるばかりです。書斎の入り口は開かず、内部がどうなっているか不明なので、貴重品の状態が心配でした。玄関の戸は壊れずに開きました。「大丈夫ですか」と言い合う声が飛び交い、マンション内の三十六軒、約100人の人々はお互いに顔を見合わせ、ほっと一息。

 一方、テレビではもっとひどい状況が映し出されていたのです。一歩外に出てみると隣の家が倒れ、またその隣の家も倒れ、道をふさいで通れません。150メートルほど先の高速道路が横転して郵便局その他の建物を押し倒さんばかり。一体あの瞬間に何が!あの二十秒の間に何が!

 阪神芦屋駅に駆けつけてみたら、駅舎はともかく軌道の一部が跳ね上げられ、線路はグニャグニャと「く」の字型にへし曲がり、無論交通不能。芦屋川の右岸側の高級住宅群は倒壊。すぐ西側のマンション群は三階を中心に腰砕け状態で全、半壊。左岸近くの市役所も半壊状態なるも、近隣の被災者続々の殺到、見るも哀れと言う他なし。

 東京や大阪にいる家族達に連絡しようとしても、電話が通じません。

 翌十八日、連絡がつかないまま大阪にいる娘一家が見舞いに来ました。電車も阪神電車が梅田から甲子園までしかつうじていないのを承知で、水、食料、簡易コンロなどなど沢山の品を持てるだけ持って、甲子園から芦屋までの長い道のりを夫婦と息子たち四人で背負って持ってきてくれたのです。玄関で私たち三人の顔を見てやっとほっとした様子でした。部屋いっぱいに散らかっているのには唖然としていました。さっそく彼らに大物を動かしてもらい、何とか前にあった位置に置きなおしてもらったのです。

 やっと一週間ほどして、電話が通じ、親戚や友人との交信で安否確認。しかし、ガス、水道の復旧がままならず。病母の苦哀を察し、娘の婚家宅に老人三人の逃避行。約一ヶ月余りとなる。特に印象に残ったのは、在日韓国者若者ボランティア、岡山、富山、長野県の中小都市救援隊、真宗系仏教団体等の給食活動であった。

 災害は忘れた頃にやってきた。のんきな関西人にとり耐え難い衝撃であった。通称「淡路、有馬、高槻活断層」に起因する、中心が神戸市東部、芦屋市、西宮市周辺の地震である。マグニチュード7.2、死亡者六千六百名負傷者数万、全半壊家屋十万戸以上となる。

 四十二年ぶりで曾遊の地に舞い戻って気づくことは関八州に地震の多いこと。

 歴史に学ぶべきか。更なる官民協力の耐震対策を中心とするあらゆる被害対応策を期待する。

1703年 元禄大地震    M8.2 303年前 南関東
1707年 宝永大噴火    M8.4   299年前 東南海地震
1854年 安政東海地震   M8.4   152年前
1855年 安政江戸地震   M6.3   151年前
1923年 大正関東大地震  M7.9    83年前
1944年 昭和中南海地震  M7.9    62年前



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地震繋がりで

先日久々に地震があってちょっとびびったのとpiraさん とのところで阪神大震災の時の手記を読んで思い出した事がありました。阪神大震災ほどではないですが私もかなり大きめの地震に遭遇したことがあったりします。それは、2003年十勝沖地震 です。私があちこちでたま

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泣いたー…

私はこういうの弱いんです。
目の前にどんどん光景が広がってきて怖くなってしまう。泣いたってどうにもならないのにね。これを体験した方の苦痛なんて想像が及んでもいないでしょうにね。
サンフランシスコ地震のとき。
電話をいくら掛け続けても通じなかった恐ろしさも蘇りました。(大丈夫でしたが)命が助かっても復興がまた本当に大変なんですよね。
あぁちょっと興奮状態です。でも読んでよかったです。ありがとうAじい♪どうぞこれからもお元気で!

泣いちゃったんですね。

michakoさん
読んでくださってありがとうございます。Aじいの力作ですからね。家にあるだけじゃもったいない気がして。しかし、上から四行目。妻を・・の段のことを聞くとはAばあが小首をかしげていたので、もしかしたらAばあは気を失っていたのかなと思います。
Aじいは戦争のために高校を繰上げ卒業させられています。そして兵学校へ。戦争にも、そして地震にも翻弄させられた人生です。それを面白くさらっと文章にしていてすごいと思いました。

壮絶です。

Aじい、壮絶な体験を教えてくれてありがとう。
さらりと描かれている事に、驚きました。
地震の直前に目覚めたのは、カンが働いたからでしょうか。
地震当時、姉の旦那のご両親は神戸に住んでいたので、
全く連絡がとれず、何度も何度も電話連絡した記憶があります。
あの日の経験、活かされているのだろうか・…

一気に記憶がよみがえりました。

あの時、関西にいっぱい友達がいて、職場の後輩の実家が神戸にあって…あの日、なぜだか明け方に目が覚めて、テレビをつけたらこのニュースでした。長田区に実家のある友人の顔がすぐに思い浮かんで、連絡を取りました。当時京都に住んでいた彼は、バイクで実家に救援物資を持って通っていました。通りをはさんで向かいの家々がすべてつぶれた、と写真を送ってくれました。
私はカンパを募って、彼に送ることしかできなかった。今ならもっと何か出来るのかな。とりあえず、寝室に高い家具、重いものは置かない、防災バッグを置いておくくらいしかできていません。

Aじい、ありがとうございました。本当に辛い体験をした人は、逆に冷静に当時を思い起こして後世に伝えられると思う。この淡々とした文章が、逆に当時の大変さをうかがわせます。本当に皆さんご無事でよかった。ナディアさんが近くにいてよかった!今皆元気でよかった!マージャン頑張って!

きっと皆さんが読んでくださっているのを喜んでいることでしょう!

ぶんママさん
また後ほどAじいとばあにインタビューしておきましょう。
怖かったと思います。
そういえばAじいは写真も記録として撮っていました。
報道で使われた映像や写真とは違い、何十年もすんでいたところが、たった数十秒の間に壊れてしまった悲しみというか
そういうのが、ずーんときました。
また、そのうち、写真を借りてアップしてもよいかもしれません。
関東もそのうち地震があると思います。
忘れちゃいけないんです。ね、Aじいちゃん。

よみがえるね。

piyomaruさん
怖かったです。連絡全然とれないし、マンションの倒壊映像とか火事の映像ばかりで、三人がどうなっているのか全然情報がなかった。ナディアさんご一家、本当に素晴らしかったです。家族四人で一人10キロ以上も担いで、本当に遠い道のりを歩いて様子を見に行ってくれました。Aじいたちもほっとしたでしょうね。書斎のドアは、なた?で壊して中を確認したようですが、うち開きの扉の近くに本棚とかたんすがあると、倒れたら、もう中には入れないみたい。これは凄い教訓ですよ。子供部屋とかの入り口付近には本棚やたんすは絶対だめですね。Aジイの場合、ある意味貴重品でよかったというかんじ。もし、あの部屋が誰かの寝室で、怪我をしていたら・・。すぐ助け出せなかったら命にかかわることですもん。

友人に教わった教訓は

家族の寝室にそれぞれの靴をおいておく
でした。
家の中もガラスだらけ、外に非難するときも玄関から出られるか分からないからと言われ、大変に納得しました。何かあったらすぐに取り出せて、全員分をしまっておけるスペースが寝室にないのが目下の悩みです。
ベトナムの建物、震度3くらいで倒壊しちゃうんだって。もし地震が起きちゃったらどうしましょう。中国でも地震は震度2くらいのを1度しか体験しませんでした。やっぱり日本は特別地震が多いんですね。

震度三で倒壊??

piyomaruさん
靴ですね。じゃあ、上履きでも買って枕元において寝ようかな。
私は忘れっぽいから、掃除のときにどかしたら分からなくなってしまいそうだ。しまったら使えないし、まったくねえ。

怖いですね

私の出身は兵庫で母兄家族(加古川)に妹家族(長田)が震災に遭いました。高速道路が横倒しになった地点(長田)に住んでいる妹達は偶然築後2年の3階建てに住んでいたので損壊は少しでしたが、一面の平地に何軒かの家がチラホラ残っている程度と、恐怖を話してくれましたね。とっさのときに何ができるのか。つい平和ぼけして生活しているけれど、こういう文章に出会えると気が引き締まります。おじいさまに感謝。

いつ来るんだろうか、怖いです。

shamuさん
そうでしたね。皆さん、ご無事でよかったです。関東もあるんですよね。なんとかなって欲しいと思っていますが、倒壊家屋の下敷きにはなりたくないですし、たんすの下敷きもいや。震災後、怖くなって寝ている部屋には何も置いていません。

Aじいさんのお母さんが当時健在であったことも

ちょっとした衝撃です。健康家系みたいですね☆

あの地震は、地震に対するイメージを根底から覆すものでした。当時僕が住んでいた大阪でさえ、建物の倒壊は殆ど無かったけれど、揺れが「揺れ」ではなくて「突き上げ」でしたから。

このような資料を、ある種の使命感を抱きつつ残されるAじいさん、お疲れ様です。果たしてあの地震を教訓に、どこまで対処能力を向上させられたかは自身がありませんが、かような努力に報いる為にも、いざと言う時に備えた行動をとりましょう☆
とりあえず、狼煙をおぼえようかと思います。

素晴らしい記録ですね。本当にこういうのは残して伝えていかないといけないですよね。
私もこの阪神大震災ほどではないですけど結構大きな地震にあい、たんすや本棚、食器棚など倒れまくった経験があります。
とにかく音がすごかったです。地面が揺れる音、建物が軋みながら揺れる音、家具が倒れて食器が叩きつけられる音。その時人間はなすすべが無くちっぽけなんだなぁと思いました。
そんなことを思い出してしまいました。

とにかく皆さん御無事で本当に良かったです!!

Aじいとお母様は十歳違い

たけさん
長生きの家であることは確かなんですが、Aじいのお母様は案外若い。のです。生き字引がそばにいるかんじで為になります。これからもまた、為になる作文を書いてもらったら、アップしますね。

こうこさん
ひょえーー。怖かったでしょう??まだそんなに大きな地震は体験していないので、関東地方在住者としては恐怖の毎日です。
Aじいのお母様は関東と関西両方とも体験してしまったのです。
かわいそうですね。でも無事でよかったです。
♪いらっしゃいませ♪


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